命を考える、と言うことは、死を考えることになるのだろう。
我が生まれて初めて死について考えたのは、物心ついて間もなく、夕食が終わり、幼い私が床に付くと、なぜだか、
「人間は、いつかは死んでしまうのだ」
と言うことが、たまらなくて、泣いていた。
それは極僅かな期間であるが、鮮明に覚えている。
その次が20代の終わり、オートバイに乗って、中央高速の下りで、笹子トンネルを走っていた時、エンジンが止まってしまったのだ。
トンネルは、路肩がなく、停車していたら、トラックが来れば、跳ね飛ばされる状況だった。
しかし、幸運にも、トンネル側面に開けられた、安全待避場に入ることができた。
比較的安全な日本において、命の危険を覚えるアクシデントは、交通事故くらいなものだろうか。
本を読んでいて、これは確実に命の危険を感じただろう、というのが、先の大戦での、米国による空襲であろう。
特に、東京の3月10日の焼夷弾による空襲は、悲惨なものであったという。
10万人以上の犠牲者が、しかも女子供の犠牲者が出ている、ということは、もはや、ジェノサイドであろう。
私は、現在、還暦だが、中年以前の私とは、命(寿命)に対する考え方は、かなり異なる。
以前は、死んではいけない、死なないように、という思いが強かったが、今では、
「その時が来れば、それを受け入れよう」
という気持ちになっている。
私の今の望みは、娘が結婚して、孫を生んでくれればいいかな、という程度のもので、それが叶えられなくても、まっ、いいかな、という感じである。
そこで、私のような、前期高齢者以上の人の、有効な活用方法は、
例えば、新薬のテスト、危険地帯への派遣、などである。
こういうことは、前途洋々たる若い方にやってもらうのは、申し訳ない。
我々を、大いに活用して頂きたい。
グリッペン
私の徒然です。
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