桜花と新幹線

 桜花は、太平洋戦争末期に、日本軍が開発した単座のロケット動力の特攻機だ。
 一式陸攻の下部に吊り下げられて、敵艦の近くまで運んでもらい、敵艦に突入した。
 現在、靖国神社の「遊就館」に、展示されている。

 以下は、ケント・ギルバート「本当は世界でいちばん人気の国、日本」を参考にしたものである。

 大空に散った桜花や一式陸攻のパイロットは、もちろん無念だろう。
 しかし、桜花を設計せざるを得なかった設計者もまた、さぞかし無念であろう。

 桜花の設計者は、三木忠直。
 彼は、こ桜花の構想を聞いた時、
「誘導装置はどうするのですか?」
 と、質問すると、ある士官が、
「人間が乗ります。私が乗ります」
 と聞き、彼は驚愕した。無人機だと思っていたのだ。

 桜花は、10回の出撃で、計78機が出撃した。
 桜花の航続距離は、僅か70kmだったので、一式陸攻は、敵艦隊のレーダーレンジ内に入らなければならなかった。敵戦闘機の、格好の餌食だ。

 未帰還者は、桜花が55名、一式陸攻が365名、計450名であった。 
 対して、米国の被害は、駆逐艦1隻撃沈、6隻損害で、犠牲者は、150名。
 なんとも、非効率な攻撃であった。
 つまり、大多数が、無駄死にであった。
 無念。
 
 戦後、かなり経って、桜花の設計図の中に、パイロットの緊急脱出装置を装備したものがあった。三木は、最大限の抵抗として、その図面を描いたのだろう。なんとかして、パイロットの命の助けようとして。
 しかし、それは実用化されなかった。

 戦後、三木は懺悔の念から、クリスチャンになっている。生涯をかけて、鎮魂するために。

 航空禁止令が解けても、三木は航空の道を選択しなかった。
 旅客機は、戦闘機になる。商業船は、戦闘艦になる。自動車は、戦車になる。
 残ったのは、鉄道のみが、軍事転用されないと考え、鉄道技術研究所に入り、やがて、新幹線の開発に携わる。最初に取り組んだのは、新幹線の先端の設計だった。

 三木は、
「技術は人を幸せにするものだ。絶対にそうでなければならない」
 と言い残している。 

 この言葉を、我々は、決して忘れてはならない。

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グリッペン

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